御座を語る人たちシリーズ(小林正盛)
真言宗の本山長谷寺大僧正、豊山派の化主。
昭和8年、病を得て潮音寺にて静養。
その時に御座に関する以下の三作品を発表。
「御座浦十二勝詩」(今回UP)
「御座浦石仏地蔵尊縁起」(UP済み)
「盆踊り詩」(近々UP予定)
()内は訳注。
御座浦十二勝詩
現代語訳
御座浦十二勝詩引
予は病気を志摩の御座浦で養生するほとんど五十日、ほぼ地形を諳んじる。
志摩の前(さき)は太平洋へ向かって東北の隅に斗出している。海をへだてて、尾張、三河、遠州、伊豆に対しており、参(三河のことか)の伊良子崎と伊勢湾を扼(おさえていること)しているので、海門となっている。 御座浦は前の西端にあり、尖った岬となっているところである。北はアゴ湾に臨み、西は海をへだて、浜島港に対している。西南は遙かに熊野の海をようしている。すぐに紀州の郡岳を望み、東南は太平洋に望んでいる。
海では波は渺漫(限りなく広い様)で、陸は即ち西より東に延びている。金比羅山である聖嶽がその間に屹立し、越賀村に接している。
岬山は村の西端に聳えている。漁人および航海者は皆、標識としている。漁業が盛んであることは天下無比であり、いんしん(盛んで賑やか)を極めている。
予は昭和八年四月にこの半島に来て、潮音禅寺に寓居する。寺は臨済宗に属している。病がようやく退き、閑に乗じて、扁舟(こぶね)に棹さし、南岬山を遠り、岩井ヶ鼻に到り、蜑女の漁撈を視る。西大崎浜に到り、五彩石を拾う。
時が過ぎて、不動窟に詣で、弘法大師の遺跡を探り、あるいは金比羅山に登り、眺矚(遠くをじっと眺めること)をほしいままにする。
ついに御座十二勝を選ぶ。おのおのに小詩をあててみる。それでも余の詩は本禅のあとの小枝でしかない。
六月十九日、病が癒えて、山房に帰り、そこで輯(集めること)して世に公にする。
君、それ御座の浦を探る者よ、この小詩を、本道の便(本物の観光の手だて)に加えてくれるならば、それこそ予の願いとししては十分なのである。
御座浦十二勝詩
(原文は漢詩、その下は意味がわかるように我流で読み下し文にしたもの。
*印は訳注。・は第三水準の漢字。(括弧内に意味だけ示した。)
更にその下は後の人がつけたコメントを現代語訳したもの。)
其 一 潜巌島奇峭 抜海石門峙R然舟可通
封姨振羊角雪浪漲晴空
その1 巌島ニ潜ム奇峭 海ヲ抜キ 石門峙(そば)ダツ
R然(ようぜん)トシテ 舟通ズ可シ *R然(幽愁をたたえたさま)
姨ヲ封ジ 羊角 振ルウ *姨(海女のことか)
雪浪漲リ 空晴レル
御座岬の西南にある洞門は海中に屹立している。高さは一千尺(330m・実際はその10分の1に及んでいる。洞内は舟を漕いでいく。潮流が渦まいている。その奇観は甚だしい。
其 二 巌井鼻蜑女 爽U千尋下浩渺太平洋
蜑女與魚似浮沈蜃闕傍
その2 巌井ガ鼻ノ蜑女 爽U(そうかい)ナリ 千尋ノ下 *爽U(土地が高くて爽やか)
浩渺(こうびょう)タリ 太平洋 *浩渺(広々と遙かなさま)
蜑女(あま)ハ 魚ト似テ
蜃闕(あわび)ノ傍ニ浮キ沈ミス
其 三 不動窟櫻雲 洞中尊像在洞外萬櫻開
似拭降魔剣風飄香雪来
その3 不動窟ノ櫻雲 洞中ニ尊像 在リ
洞外ニ萬ノ櫻 開ク
降魔剣ヲ 拭ウニ似タリ
風 飄トシテ 香雪 来タル *香雪(香りある白い花のたとえ)
弘法大師がこの地に巡錫して自然石の不動明王の像を爪刻する。爾来、一千年、霊験が顕著である。賽者(神仏に奉る者)は絶えず、境内の桜の樹が花開く時は雑踏している。
(後の人の書き込みから):不動尊前境内の五よ(葉)松は平成二年までやく百六拾年すだちおわる(松くい虫にて)
其 四 潮音寺蘇鐵 洞外秀蘇鐵三株競壮姿
咆哮如猛虎半夜受風時
その4 潮音寺ノ蘇鐵 洞外ノ秀シ 蘇鐵
三株ガ 壮姿ヲ競ウ
咆哮ハ 猛虎ノ如シ
半夜 風ヲ 受クルノ時
潮音寺は臨済南禅寺派に属する。庭前に三株のソテツがある。樹齢百余年、夜来の海颶(海上の暴風雨)に(その響きは)猛虎の咆哮に似ている。
其 五 白良浜清沙 行誦西行詠南州夏尚寒
平沙白於雪月色似翻瀾
その5 白良浜ノ清沙 行誦ノ西行ハ詠ズ
南州ノ夏ハ 尚 寒シ
平沙ノ白ハ雪ニ 於イテナリ *於雪(雪となること)
月色ハ翻瀾ニ似タリ *翻瀾(翻っている波)
御座浦の南沿岸に数丁(数百メートル)の白浜がある。平らかな砂浜は雪のようである。昔、西行法師の詠が山家集に載せられている。
浪よする白良のはまの烏貝 ひろいやすくもおまはゆるかな
其 六 大崎濱彩石 磊々沙汀外V斑五彩分
斎来徐賞翫案上爛祥雲
その6 大崎濱ノ彩石 磊々ナリ 沙汀ノ外 *磊々(石がごろごろしているさま)
V斑(らんはん)ハ 五彩分アリ *V斑(ともにまだらを意味する二字)
斎キテ来ツ 徐ニ 賞翫ス
案ノ上 祥雲 爛(ただ)ルル *祥雲(めでたい雲)
大崎浜は旧名を弥池の浜と言う。五色の石を産出している。その形は奇妙で色は変化する。その珍奇なことは名状しがたい。
其 七 御座社夕照 秋風千里到落木下祠前
鬱々豫章分斜陽照半天
その7 御座社ノ夕照 秋風ハ 千里ニ 到リ
落木ハ 祠前ニ 下ル
鬱々トシテ 豫ハ分カツヲ 章(あきらか)ニス
斜陽 半天ヲ 照ラス
御座神社は樹齢千年の楠の樹が鬱然として冲天に聳えている。
其 八 金比羅展望 聖僧留錫地訪古上山嶺
長風層浦外遙望紀前天
その8 金比羅ノ展望 聖僧 錫スル地ヲ 留メ
古ヲ 訪レ 山嶺ニ 上ル
長風ハ 浦外ニ 層(かさな)リ
遙ニ 紀前ノ天ヲ 望ム
弘法大師が経塚を墳する。後の人は金比羅祠を祭り、渺茫(広く果てしないさま)とした太平洋を望み、紀勢の連山・アゴ湾の風光にすべての人は黙するだろう。
其 九 石佛浦地蔵 休道石維頑我来開活眼
霊光天地通功徳自無限
その9 石佛浦ノ地蔵 道(い)ウヲ休(や)メヨ 石ハ 維(ただ) 頑ナリト
我 来タリテ 活眼ヲ 開ク
霊光ハ 天地ヲ 通リ
功徳ハ 自ズカラ 限リ無シ
御座浦の西に石仏がある。海中にあって、賽者が次々と来る。初瀬寺僧正が地蔵尊の開眼供養を行っている。
其 十 八木山雙松 雙松横岬角龍影踊波心
風雪雖然烈操持那得侵
その10 八木山ノ雙松 雙松 岬ノ角ニ 横タウ
龍ノ影 波ノ心ニ 踊ル
風雪ハ 然烈ト 雖モ
操リ持ツレバ 那(いかで)カ 侵ヲ得ルヤ
八木山の岬端に雙松がある。雌雄が混じり合って、龍が臥せっているようである。俗称は相の松と言う。惜しいことに、往年の地震(昭和十八、九年頃の大地震)によって、枯死し、わずかにあったという跡があるのみである。
(更に後人の注:樹齢数百年の老松にて、根幹直径一米、南方の枝雄松にて、北方海向き枝雌松なり。)
其十一 小石浦伝説 豊姫乗鰐去海底石船存
風雨三年載堪尋大統源
その11 小石浦伝説 豊姫 鰐ニ乗リ 海ヲ去ル
海底ニ石船 存ス
風雨ノ三年ヲ 載セ
大統ノ 源ヲ 堪尋ス *大統(天皇の系統)
言い伝えによれば、彦火々出見尊が豊玉姫命をめとり、ウガヤフキアエス尊を産み、ワニに乗って岬山に去る。彦の尊は、日夜、思慕して、懐かしいと呼ぶ。浦の名を恋し浦、小石浦と称している。
其十二 烏賊浦ノ鮪 古来漁鮪地盛業世皆知
今以真珠著天恵無尽時 *尽(原文は旧字体)
その12 烏賊浦ノ鮪 古来ヨリ 漁鮪地アリ *鮪(まぐろ)
業 盛ンナルハ 世ノ皆 知ル
今 真珠ヲ以テ 著シク
天ノ恵ハ 尽キル時 無シ
御座浦の東岸十余丁にイカノ浦がある。水深二十尋で、古来から鮪漁で有名である。当今は真珠養殖場として、天恵は無尽蔵である。
御座浦石仏地蔵尊縁起
そもそも地蔵尊の由来を考えてみると、遠い昔、釈尊がこの世に住まわれるに当たって、その附嘱(仏の教えを伝えるよう託すこと)をうけて、末世無佛の世界に出て、濁悪の衆生をよく化導した。縁に触れ機に応じて限りない救済をお施しになるのは、あたかも大地の群穢(多くのけがれたもの)を浄化して万物を生き生きと育成させているかのようである。
ここに志摩の國御座の港に、俗に『いしぼとけ』と称して奉っているのは、今を去る六十五年前の明治の初年に当たり、当村の弥吉老人の午睡の夢に『私は本地蔵菩薩である。古くより因縁を感じてこのところに姿を現している。もし心を寄せて至心に祈願しようとするものには定めて腰より下の病疾を治すであろう。且つ私は潮の浸っているところにあって諸人のために常に代わって苦患を洗浄しよう。必ず高所に移してはならない』と姿を現わされた(ことに始まる。訳者補足)。
その時には、弥吉老人がこの石をまつることはあたかも佛に対するかのようである。もともと自然石であるので、その後、波切の石工の某がこれを毀して石垣の材料にしようとしたが、その妻女がたちまちに病に犯され、冥罰を思い、煩いつつ亡くなったという。
後の明治三十年の頃に至り、当村の柴原市太郎氏の長男であった徳平氏がここに一基の地蔵尊を建立したものの、尊像が小さく、海波に流されようとしていることを憂い、さらに大正十年に、あらたに第二の尊像を建てた。石材は船越の船人の特志により、紀州南牟婁郡梶賀村から運ばれてきたものといわれている。
それ以来、幾星霜(長い年月)、霊験が顕著になり、威力霊感が、日夜、広大になりつつあるといわれる。
小衲(私・僧侶の自称)は、本年四月下旬、たまたま病のため当地で養生し、潮音寺に寓してこの霊験のことを聴く。ちょうどその時に、柴原市太郎老の発願の下に新たに詣路が開鑿(道路が切り開かれ作られること)されたことを知り、尚また、村民が挙って帰依崇敬の誠心を向けているのを見て、感激に堪えず、小衲もまた深く祈念するところがあって、宿痾(長い間治らない病気)が日を追って快復するに至るのである。まことに不可思議な感応と称さなければならない。
それにより、潮音禅寺住職の児玉芳山師とはかり、本日を以て数人の僧侶とともに供養の法会を営み、御詠歌一首を献じ、あわせてその由来を記して後の人に示すと云う
かぎりなき世のもろびとを救はんと
御座の浦わにおはすみほとけ
昭和八癸酉歳六月七日(旧五月十五日)
大和国 総本山長谷寺化主
大司教大僧正 小林正盛 謹述
TOPへ 「御座」あれこれ・目次へ